常磐新線

やはり開発最優先だった常磐新線

―――――――開通14年を考える

  2005年8月24日に首都圏新都市鉄道(常磐新線・通称つくばエクスプレス・略称TX)が開通してから、14年がたった。
 新線が構想された1985年当時、常磐線の混雑率は200%台の後半という、全国的に見ても1〜2位の凄まじさであった。そこで、この混雑の解消を掲げた新線構想は、多くの利用者や住民に歓迎された。一方で、新たな地域開発を行うともされていた。私は、新線によって本当に混雑は解消するのか、そして、その開発手法に疑問を持ち、開通前(『技術と人間』1994年4月号所収)や開通後(『マスコミ市民』2005年10月号所収)など、所論を述べてきた。開通から14年たった今、新線とその地域への影響について、流山・柏といった東葛地域を中心に改めて考えてみた。

T 混雑は解消されたのか


 新線の何よりの必要理由とされた常磐線の混雑は、どうなったのか。千葉県が2019年3月5日に発表した、路線別のラッシュ時における混雑率の推移を見てみよう。


常磐線 快速 松戸〜北千住
                                                     
最 混 雑 1 時 間
年度 列車回数(回) 列車編成(両)輸送力(人)通過人員(人)混雑率(%)
1980年 10 10.0 14000 37700 269
1985年 10 10.0  14000 37500 268
1990年10 15.0  21000 46450 221
1995年 10 15.0  21000 48740 232
2000年 10 15.0  21000 43120 205
2005年 10 15.0 22200 37600 169
2010年 15.0 19980 34070 171
2015年 10 15.0 22200 35680 161

                                            千葉県の資料から作成

常磐線 緩行  亀有〜綾瀬 (1965年度までは三河島〜日暮里)
                                                                                          
最 混 雑 1 時 間
年度 列車回数(回) 列車編成(両)輸送力(人)通過人員(人)混雑率(%)
1955年107.4 10360 28520 275
1965年159.0 18900 53650 284
1975年1810.0 25200 51800 206
1980年18 10.0 25200 60340 239
1985年20 10.0 28000 72650 259
1990年22 10.0 30800 75760 246
1995年22 10.0 30800 76100 247
2000年24 10.0 33600 70080 209
2005年24 10.0 33600 61300 182
2010年24 10.0 33600 56620 169
2015年24 10.0 33600 52070 155

                       千葉県の資料から作成


  全体として見ると、混雑率は低下しているように見える。しかし仔細に見ると、単純に混雑が解消しているとは言えない。まず快速については、編成が10両→15両になったことが大きく寄与していることが見て取れる。また、新線開通後の2005年以降にも混雑率が大きく低下しているが、これが新線への移行によるものかは、後ほど検討してみる。緩行については、編成の10両化と何よりも1971年の複々線化とそれに伴う地下鉄千代田線との相互乗り入れが大きく寄与していることが見て取れる。確かに全体としては、かつての300%近い混雑率が大きく低下している。極々単純に言えば、複々線化により輸送力が2倍になり、10両編成→15両編成によって輸送力は1.5倍となった。実際、複線で各駅停車のみであった1965年と複々線化され快速が15両編成なった1990年の輸送力を比べると、2.74倍となっている。こうした輸送力の大幅な増加が、混雑率の低下に繋がったのではないのか。
 こうしたことが意味するものをさらに考える上で、国鉄の分割・民営化から30年を機に、2017年8月に企画された『東洋経済』ウェブ版=鉄道の混雑率は、30年でどう変わったか(小佐野景寿記者)を見てみよう。

東京圏・鉄道混雑率の変化
1986年度
順位路 線 名最 混 雑 区 間混雑率(%)
常磐線快速松戸→北千住271
総武線快速新小岩→錦糸町262
中央線快速中野→新宿260
京浜東北線大井町→品川257
横須賀線保土ヶ谷→横浜250
山手線外回り上野→御徒町245
総武線各駅停車錦糸町→両国245
常磐線各駅停亀有→綾瀬243
銀座線赤坂見附→虎ノ門241
10千代田線町屋→西日暮230
日比谷線三ノ輪→入谷230

1996年度
順位路 線 名最 混 雑 区 間混雑率(%)
山手線外回り上野→御徒町244
南武線武蔵中原→武蔵小杉243
常磐線各駅停車亀有→綾瀬243
京浜東北線 大井町→品川242
埼京線池袋→新宿238
総武線各駅停車錦糸町→両国233
東海道本線川崎→品川229
中央線快速中野→新宿228
常磐線快速松戸→北千住220
10武蔵野線東浦和→南浦和219
総武線快速新小岩→錦糸町219

2006年度
順位路 線 名最 混 雑 区 間混雑率(%)
山手線外回り上野→御徒町216
中央線快速中野→新宿208
総武線各駅停車錦糸町→両国206
武蔵野線東浦和→南浦和202
埼京線板橋→池袋200
東西線木場→門前仲町199
京浜東北線大井町→品川198
東急田園都市線池尻大橋→渋谷196
京葉線 葛西臨海公園→新木場196
10南武線武蔵中原→武蔵小杉192
横浜線大口→東神奈川192

2016年度
順位路 線 名最 混 雑 区 間混雑率(%)
東西線木場→門前仲町199
総武線各駅停車錦糸町→両国198
小田急小田原線世田谷代田→下北沢192
横須賀線武蔵小杉→西大井191
南武線武蔵中原→武蔵小杉188
日暮里・舎人ライナー赤土小学校前→西日暮里188
中央線快速中野→新宿187
東海道本線川崎→品川184
東急田園都市線池尻大橋→渋谷184
10京浜東北線大井町→品川182

     『東洋経済』ウェブ版より作成   数値は、国土交通省および『都市交通年報』から

 一目見て気が付くのは、全般に混雑率が低下しているということだ。常磐線だけが低下している訳ではない。また2006年度までは、混雑率が高い上位5位すべてが、東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線となっていた。ところが、2016年度には混雑率1位は東京地下鉄の東西線となり、3位は小田急小田原線となった。しかし小佐野記者も述べているように、これらの線の混雑率が以前は低かった訳ではない。『東洋経済』ウェブ版=鉄道の混雑率は、30年でどう変わったか(前出)によれば、東西線の混雑率は1996年度が200%、2006年度が199%であり、2016年度と変わっていない。小田急線も1996年度が193%、2006年度が190%と2016年度とほぼ同じとなっている。つまり、かつて混雑率上位だった路線で一定程度混雑が緩和されたのに対して、これらの路線が緩和されなかった結果、上位に繰り上がった訳である。
 これには色々な理由が考えられる。大きくは、少子高齢化に伴う通勤通学利用者の減少が考えられる。鉄道自体では、列車編成の長短も影響しているように思う。常磐線快速の15両化をはじめとして、東海道線・横須賀線・高崎線・宇都宮線は13両に、山手線も11両編成となった。一方、2006年以来混雑率上位に入り続けている南武線は、6両編成のままだ。この30年間、混雑率上位に入り続けている総武線緩行も、1960年代半ばに10両編成になってから、列車編成が増えていない。したがって輸送力自体も、2003年に1時間あたり38400人になって以降、増えていない。また構造上、長編成化が難しい地下鉄各線も編成は6両から10両どまりとなっている。常磐線緩行にしても、千代田線との相互乗り入れのためか、10両編成から増えない。また、1996年の埼京線の恵比寿延伸をはじめとする貨物線の旅客線化など、続々と路線の拡充を進めた結果、かつての混雑率上位路線が軒並み下位へ落ちたのではないだろうか。
国土交通省鉄道局都市鉄道政策課が毎年発表している東京圏における主要区間の混雑率を見ても、2017年度の常磐線快速の混雑率は157%、緩行は154%であり、山手線外回り=上野〜御徒町間の153%を上回っている。ここでも、常磐線だけが混雑率を下げている訳ではないことが見て取れる。
国交省の同じ資料にある、三大都市圏主要区間の平均混雑率によれば、東京圏:163%、大阪圏:125%、名古屋圏:131%であり。依然として東京圏の混雑が解消していないことが見て取れる。
  東日本旅客鉄道の路線別ご利用状況を見て、面白いことに気が付いた。下表に見るように、常磐線は取手までだけではなく、その先勝田、さらにはいわきまでもが、通過人員そのものが、1900年代後半以降ほぼ減り続けているのだ。

平均通過人員(人/日)
区 間1987年1992年1997年2002年2007年2012年2017年
日暮里〜取手381795454201452447428608382996354379361889
取手〜勝田62238742007274266737640375907862217
勝田〜いわき27596289772519721601206111888019596

                                    路線別ご利用状況より作成


東京までの通勤通学だけでなく、常磐線全体の問題が見て取れよう。
 

●首都圏新都市鉄道の輸送人員
 では、首都圏新都市鉄道の利用者は、どうなっているのだろか。中期経営計画にある、一日平均乗車人員の推移を見てみよう。
 

                            

2018年度は2019年5月31日発表の資料による




 2005年の開通以来、着実に乗車人員が増えていることが見て取れる。ただ、開業時の1日当たりの輸送需要を47万4千人とした1992年7月の会社想定からは、かなり少ない。これらの点については、後ほどさらに考えてみる。ここでは、新線建設の理由とされた常磐線からの移行がどれ程あったのかを検討してみる。
会社発表の1日平均乗車人員(年度別)によれば、千葉県内5駅の乗車人員は次のようになっている。

駅  名2018年度2017年度
南 流 山37030人35913人
流山セントラルパーク5248人4707人
流山おおたかの森38194人36491人
柏の葉キャンパス17163人16431人
柏 た な か5920人4909人

  武蔵野線との乗換駅である南流山、東武野田線との乗換駅である流山おおたかの森両駅の利用者が突出して多いことが見て取れる。新線が開通するまで、東武野田線を利用して東京都心へ行く者の多くは、柏で常磐線に乗り換えていた。したがって、流山おおたかの森の乗車人員が突出しているのは、常磐線からの一定程度の移行が考えられる。しかしこれも、そう単純には言えないように思う。この点についても、後ほどさらに考えてみる。

・競合関係となった常磐線
 当初、運行はもとより会社の経営にも、国鉄の参加が期待されていた。しかし、民営化もあって、東日本旅客鉄道(JR東日本)の参加はならなかった。それどころか新線とは競合関係となり、次々と乗客の獲得策を打ち出した。新線の開業前にはダイヤ改正を行い、土浦〜上野間で特別快速の運行を始めた。また2007年3月からは、中距離列車に二階建てのグリーン車を登場させるなど、次々と対抗策を打ち出している。新線の何よりの目的は、常磐線の混雑解消ではなかったのか? いやはや……。
  こうなったのは、新線計画の変遷の必然の結果とも言えよう。そもそも新線への期待は、それぞれの自治体−地域で違っていた。常磐線の混雑解消を期待した千葉県の案は、いずれの案も都内から常磐線に程近い地域を通り我孫子へ至るルートであった。一方、県南の開発と筑波研究学園都市への鉄道誘致を期待した茨城県の案は、常磐線から距離をとり筑波研究学園都市へ至るルートであった。今日の新線と常磐線の競合関係は、すでに内包されていたと言えよう。
 では実際のところ、どれ程の利用者が常磐線から新線に移行したのだろうか? ところが、こうしたことを示した数値が見当らない。新線を所管する流山市交通計画推進室柏市交通政策課にお尋ねすると、「調査自体1度もしたことが無い」とのことだ。恐れ入った。あれだけ常磐線の混雑解消を新線の第一義に掲げながら………。首都圏新都市鉄道にお尋ねしても、東武鉄道にお尋ねしても、国土交通省にお尋ねしても、どこも調査していない。東武鉄道お客様センターの方が、おっしゃった。「少子高齢化による全体の乗客減少の影響の方が大きい」。鉄道会社にすれば、そういうことなのだろう。
  国土交通省が5年ごとに行っている大都市交通センサスを見てみた。その2017年度調査に、ようやく東武野田線の野田方面から新線への乗り換えについての数字が載っていた。それによれば、新線開通後東京方面へ行くのに、20〜30%程度が新線経由に移行したようだ。ただ、新線沿線の人口増加に伴って、その比率は相対的に下がっている。また大都市交通センサスも指摘しているように、その後増える様子は見られない。このような野田線からの移行は、計画段階から言われていたことだ。さらにこの調査でも、常磐線そのものからの移行は問われていない。


全体を見て言えるのは、以下のようなことではないだろうか。

 ・東京圏の鉄道混雑率は、全体としてかなり低下してきた。常磐線だけが低下した訳ではない。もっとも、他の都市圏と比べて、混雑が緩和されている訳ではない。むしろ、高止ま
  りの様子が見られる。
  
 ・常磐線から新線への利用者の移行は、一定程度見られるが、かなり限定的ではないのか。そもそも、常磐線から新線への移行を調べたものが見当らない。

   

U首都圏新都市鉄道の状況


 すでに見たように、首都圏新都市鉄道=常磐新線は、着実に利用者を増やしてきた。こうしたことから、成功例と見る向きがある。果たして、そうであろうか。
まず、会社の決算資料を見てみる。


経常利益はどのように推移してきたのだろうか。
                                   2008年3月期             −19億 108万円
  2009年3月期         −13億6310万円
  2010年3月期             3047万円
  2011年3月期          26億2928万円
  2012年3月期          21億8335万円
  2013年3月期          29億7619万円
  2014年3月期          37億1099万円
  2015年3月期          42億6580万円
  2016年3月期          51億3163万円
    2017年3月期          50億1055万円
2018年3月期          61億4891万円
                2019年3月期          60億8731万円

 ここでも、概ね順調に利益を伸ばしてきたことが見て取れる。会社が、「2009年度から10期連続で経常黒字」と高らかに謳うのは、その通りだ。さらに2018年3月期には、それまでの累積損失を解消し、利益剰余金を生み出すまでになっている。


●利益を上げる都市型第三セクター鉄道
  首都圏新都市鉄道株式会社は、地方公共団体と民間事業者が出資するいわゆる第三セクター鉄道である。第三セクター鉄道は大きく、国鉄の民営化に伴い旧国鉄から分離されたもの、私鉄や新幹線開通後の路線を転換したもの、大都市圏に開業した都市型に分けられる。
こうした第三セクター鉄道について、東京商工リサーチが2016年10月21日に公表した、2015年度 全国第三セクター鉄道63社 経営動向調査を見てみよう。
 それによれば、同じ第三セクター鉄道といっても、経営的に見て、明らかな違いが見られる。輸送人員・営業収入ともに、以下のように、上位10社すべてを都市型が占めている。

   年間 輸 送 人 員       
順位会 社 名輸送人員(千人)
首都圏新都市鉄道1億2315万02
東京臨海高速鉄道8882万8
横浜高速鉄道7240万7
北大阪急行電鉄5882万5
東葉高速鉄道5282万7
多摩都市モノレール5049万7
ゆりかもめ4553万4
大阪高速鉄道4455万3
神戸新交通3838万9
10埼玉高速鉄道3684万8

東京商工リサーチの資料より作成

営 業 収 入
順位会 社 名売上高(百万円)
首都圏新都市鉄道420億11
東京臨海高速鉄道200億30
北総鉄道164億80
東葉高速鉄道156億58
横浜高速鉄道114億73
大阪高速鉄道107億89
ゆりかもめ104億49
埼玉高速鉄道94億38
多摩都市モノレール84億52
10神戸新交通71億56

                   東京商工リサーチの資料より作成

さらに、経常利益も見てみよう。

経 常 利 益
順位会 社 名経常利益(百万円)
首都圏新都市鉄道51億31
北総鉄道41億71
大阪高速鉄道36億91
東京臨海高速鉄道33億77
東葉高速鉄道27億88
ゆりかもめ24億37
埼玉高速鉄道15億16
多摩都市モノレール13億85
埼玉新都市鉄道7億60
10IRいしかわ鉄道7億40

東京商工リサーチの資料より作成

 ここでも、10位のIRいしかわ鉄道以外は、都市型の第三セクター鉄道が上位を占める。
 首都圏新都市鉄道は、いずれも1位となっている。輸送人員・営業収入は2位以下を、大きく引き離している。取り分け営業収入は、2位の2倍以上となっている。一方、経常利益は、それ程の差が見られない。また、高額運賃で知られる北総鉄道が、輸送人員では上位10位に入らないにもかかわらず、売上高・経常利益では3位・2位となっているのが目に付く。

 全体を見て言えるのは、以下のようなことだ。

 ・輸送人員の多さを反映して、首都圏新都市鉄道は多額の営業収入を上げている。しかし、これは一人首都圏新都市鉄道に限ったことではなく、都市型第三セクター鉄道全体に言える。

 ・一方で、国鉄の民営化に伴い旧国鉄から分離された第三セクター鉄道は、赤字が続いている。

 これは、何を意味しているのだろうか。全体としては人口が減少しつつあるにもかかわらず、引き続き大都市圏では人口が増え続けている。取り分け東京圏の人口増は突出している。その結果、東京圏の鉄道の輸送人員は増え続け、利益も増え続けている。そういうことではないだろうか。

●高下駄を履かせてもらった首都圏新都市鉄道

 長期債務
広く知られるように、首都圏新都市鉄道株式会社には、鉄道建設を行った鉄道・運輸機構に対する6000億円近い債務がある。2019年5月31日に発表された要約賃借対照表負債の中に長期未払金という項目があり、これが鉄道・運輸機構への債務と思えるが、一瞥しただけでは分からない。会計処理としては、これで問題ないのだろう。会計の専門家が見れば、充分に理解できるのかもしれない。ただ、経理に不慣れな一般の者にとっては、直ちには理解しがたい。もっとも会社も、鉄道・運輸機構の債務を隠しているわけではない。また、毎年200億円ほどを返済している。いわゆる債務不履行の状態にある訳ではない。しかし、2018年度の残高=約5353億円を完済するには、今のペースで返し続けるとすると、単純計算で27年ほど掛かることになる。
 そもそも首都圏新都市鉄道は、鉄道敷設にあたり、建設資金の80%を無利子で提供された。その内半分は当時の鉄道整備機構、残りの半分が自治体からの貸付であった。それぞれ3200億円とされていた。これも返済してゆかねばならない。この内、自治体分については、決算資料を見ても、自治体分と明記されていない。これも、会計処理としては、これで問題ないのだろう。当時の鉄道整備機構からの出資分は、組織の再編などによって、どうやら現在の鉄道・運輸機構債務とされたようだが、変遷・内訳はよく分からない。
出資したはずの、千葉県の所管課である交通計画課にお尋ねしてみた。ところが、「貸しているかどうかも、直ちには分からない」とのことだった。恐れ入ったとしか言いようが無い。県民の税金から、それもかなりの額を貸しているはずなのだが…‥。ただ、会社の決算資料を見る限りでは、自治体分の債務も返済がされ続けているように見える。
 さらに返済そのものについても、首都圏新都市鉄道株式会社は特別待遇を受けた。それまでの私鉄の新線建設に対する国の補助は、P線方式と呼ばれ、返済は25年とされていた。ところが常磐新線については、返済期間が15年延長されて40年とされた。ここでも、破格の厚遇を受けたことが見て取れる。また、2019年3月期の有価証券報告書によれば、有利子負債の平均利率は0.34%となっている。こうした超低金利情勢が、経営に寄与していることも考えられる。こうした点は、2018年〜20年度中期経営計画で、会社も率直に認めている。

 資本金=1850億円  大株主としての自治体
 首都圏新都市鉄道株式会社の資本金は、1850億1630万円である。これは、東日本旅客鉄道(JR東日本)の約2000億円に次ぐ額である。常磐新線は、つくば〜秋葉原まで58.3kmとそれなりの営業距離がある。しかし、運行は1路線のみである。さらに、私鉄大手の東京急行電鉄の資本金でさえ約1217億円であることを考えれば、いかに多大の資本金であるかが分かる。
 先に述べたように、首都圏新都市鉄道株式会社は、地方公共団体と民間事業者が出資する第三セクター鉄道である。第三セクターと聞けば、地方公共団体と民間事業者がほぼ半々の出資割合を思うかもしれない。しかし首都圏新都市鉄道株式会社は、実にほぼ9割が自治体からの出資となっている。そもそも会社設立当初は、民間からの出資は無かった。実質、自治体会社と言ってもよい会社である。各自治体の出資割合は以下の通りとなっている。

                  茨城県=18.05%  東京都=17.65%  千葉県=7.06%  足立区=7.06%  つくば市=6.67%
                  埼玉県=5.88%   台東区=5.30%   柏市=5.30%  流山市=5.30%  千代田区=2.65%
                  荒川区=2.65%   八潮市=1.62%  守谷市=1.47%   つくばみらい市=1.47%
                  三郷市=1.32%                         有価証券報告書より
 ここでも、茨城県の力の入れようが見て取れる。今回、いくつかの自治体にお尋ねして何よりも気になったのは、首都圏新都市鉄道株式会社について、ほとんど関心が無いように見えたことだ。具体的な数字を、ほとんど持ち合わせていない。開通までは、あれ程熱心に新線の必要性を語っていたにもかかわらず……。開通してしまえば、後は会社任せということなのだろうか? 一応、株主総会には出席しているようだ(荒川区・柏市・流山市の話)。見たように、自治体は首都圏新都市鉄道株式会社の大株主だ。株主としても、もう少し会社への関心があってしかるべきであろう。

●北総開発鉄道の失敗に学ぶ
見たように、首都圏新都市鉄道株式会社は特段の手厚い配慮を受けた。これには理由がある。今なお超高額運賃が話題となる、北総開発鉄道の経験があったからだ。
高度経済成長真っ只中の1960年代、千葉県の北総台地に千葉ニュータウンが計画された。東京への通勤・通学者の住宅地とするものであった。北総開発鉄道は、その通勤・通学者のために引かれた。ところが、計画人口34万人に対して、常磐新線が計画された1985年当時には2万数千人に過ぎなかった。その後、計画人口は14万人に引き下げられたが、今も10万人ほどに留まる。そのため、北総開発鉄道の利用者は想定を大きく下回ることになり、経営を圧迫することになった。さらに、新鎌ヶ谷〜高砂の2期線の建設費が重荷になって、超高額運賃となってしまった。
 かつて、『トランスポート』という運輸省の広報誌があった。その1985年12月号の座談会で、常磐新線を答申した運輸政策審議会の委員諸氏が、このような北総開発鉄道の経営困難から学んだことを、実に率直に語っている。そこで、北総開発鉄道の経験から次のような方策が採られた。


・資本金を、異例とも言える1850億円という巨額なものにする。さらに、自治体からの出資を極めて手厚くする。

・運賃を、超高額にはしない。ちなみに、2019年11月現在の常磐線と新線の運賃は以下のようになっている。
                       常磐線                  新線
    初乗り           140円             170円
南千住〜南流山       310円             480円
南千住〜柏          400円    〜柏の葉    630円
南千住〜取手        570円     〜守谷     740円
南千住〜荒川沖       990円    〜つくば    1100円
 このように、常磐線に比べ新線の方が割高ではあるが、かなり抑えた運賃設定となっている。

  ・初めから東京都心直通とする。

  ・そして何よりも、沿線の開発を積極的に進め、利用者を確保する。これを実現するために制定されたのが、大都市地域における宅地開発及び鉄道整備の一体的推進に関する特別措置法いわゆる宅鉄法・一体化法であった。

●宅鉄法・一体化法は有効であったのか
 首都圏新都市鉄道について語るとき今でも、「沿線の土地区画整理事業と鉄道建設を一体で進める」と枕詞のように言われる。確かに宅鉄法・一体化法は、先買いした土地を鉄道用地に集約換地することを、最大の特徴とする。他の区画整理や直接買収と較べ、鉄道の敷設にとって、それなりに有効であったとは思う。また、計画当時の狂乱地価とも形容された状況では、先買いによる費用の削減も有り得た。しかし、その後の地価下落と安定化の元では、その有効性は相対的に低下している。

・実現しなかった鉄道建設基金
さきに見た運輸省の広報誌『トランスポート』で、常磐新線を答申した運輸政策審議会の委員が、鉄道建設基金という仕組みを提起していた。それは、鉄道の開通による開発利益を基金として積み立て、鉄道や駅前の整備に活用しようとするものであった。考え方としては、すでに私鉄が沿線の開発で行っているものだ。ただ、基金とする点が目新しい。しかし鉄道建設基金は、あくまでも開発による地価の上昇を前提としており、また、基金の出し手も主に自治体が想定されており、民間事業者からの利益還元については述べられていない。結局、鉄道建設基金は宅鉄法・一体化法に盛り込まれなかった。その後の地価の下落もあってか、いつの間にか消えてしまった。
このように宅鉄法・一体化法は、ある程度の意味はあったが、今となっては、どれ程の意味があったのか疑問に思えてくる。実際、常磐新線以降、宅鉄法・一体化法の適用は無い。


V 新線が地域に与えた影響


 このように、手厚い配慮を受けて建設された常磐新線。その沿線に、どのような影響を与えたのだろうか。千葉県の流山・柏市を中心に見てみる。

流山市の人口動向

                                            流山市統計書より作成

 一目見て気がつくのは、東京近郊都市のご多分にもれず、1960年代〜70年代の高度経済成長期に急激な人口増加が進んだということだ。一方で1990年代以降は、増加が頭打ちになったことが見て取れる。ところが、2005年の常磐新線の開通以後、再び増加の勢いを強めていることが分かる。では、新線開通後の人口構造はどのように変化したのだろうか。国勢調査の2000年と2015年を見てみよう。

                                         国勢調査を元に作成

  労働世代の増加と共に、その子供と思われる年少人口が増えていることが分かる。一方で、高度経済成長期に流入した世代の高齢化が急速に進んでいる様子も読み取れる。
  さらに流山市総合計画後期基本計画下期実施計画(2016年〜19年)にある転入・転出の推移を見てみる。


                  

流山市総合計画後期基本計画下期実施計画を元に作成



   しばらく転入・転出が拮抗していたが、2005年の新線開通以降、転入が転出を大きく上回るようになったことがよく示されている。なお、2011〜13年にかけて転入が大きく減ったのは、市も述べているように、東日本大震災時の原発事故により放射能が東葛地域に降り注いだことによる。しかし2014年以降は、再び転入が増加している。

市域の18%にも及ぶ開発計画
 見たように、一旦人口増加が停滞した流山市は、新線の開通により再び人口増加を加速させた。それを可能にしたのは、新線開通に合わせた開発計画があったからだ。その面積は、新駅周辺を中心に5地区=627haとなっている。実に、市域の18%にも及ぶ。計画人口は、61900人となっている(千葉県の資料)。言い換えれば、まだそれだけの開発余地があったということでもある。
 現在流山市となっている地域は、永らく典型的な江戸-東京近郊の農業地域であった。しかし、先に見たように1960年代〜70年代の高度経済成長期に、住宅地化が進んだ。再び流山市統計書を見てみる。

                      

流山市統計書2018年版より作成


新線が計画された90年代と2005年の新線開通後を比べても、農地が大きく減っていることが分かる。

悲願の東京直結鉄道
 このように流山市は、新線とそれに伴う開発に力を入れてきた。それには、歴史的背景がある。流山は江戸川に面しており、舟運による物資の集積地として栄えた。そうしたこともあって、明治になった当初、葛飾県の県庁が置かれた。さらに廃藩置県によって印旛県となった時も、県庁が置かれた。しかし、こうした事が、時代の流れに乗りそこなうことになる。1896年(明治29)に日本鉄道土浦線=今の常磐線の敷設が発表されると、舟運業者を中心に強い反対運動が起こった。そのため、土浦線は流山を避ける路線となった。やがて鉄道の隆盛によって、舟運は衰えていった。こうして流山は、時代の趨勢から遅れることになってしまった。そこで大正期になり、流山にも鉄道を引こうということになった。こうして1916年(大正5)、常磐線の馬橋と流山を結ぶ鉄道が開通した。現在の流鉄流山線である。しかし流鉄は、東京へ直結してはいない。今も単線であるように、ローカル鉄道の域を出ない。念願の国鉄駅を得たのは、ようやく1973年の武蔵野線開通による南流山駅開設のことであった(『流山の旧史旧跡』市教育委員会を参照)。しかし武蔵野線もまた、東京を環状に結ぶ路線である。そこに計画されたのが、常磐新線であった。

都市核の無い流山市
東京直結鉄道が通った松戸や柏に比べ、人口の増加も大きく遅れた。流山が町→市になったのは、ようやく1967年のことである。しかもこの時でさえ、市になる要件の一つである人口5万人に達していなかったが、特例として市になったくらいである。元々の市街地は、流鉄流山駅に近い江戸川沿いであった。しかし、常磐線の南柏駅近く、さらに市東部を南北に結ぶ東武野田線各駅周辺というように、市街地が3つに分かれる構造となってしまった。こうした鉄道事情もあって市街地が分散し、核の無い都市構造になっている。そこで新線を機に、新たに都市核を造ろうとする。1987年3月に流山“ふるさと21”計画―新線とアメニティタウン流山を策定し、さらに91年2月には常磐新線沿線整備基本構想を策定し、新たな都心を造ろうとした。こうした試みがどうなっているか、さらに後ほど見てみる。


幻の業務核都市
柏市は流山市とは違って、常磐線の柏駅を中心に、すでに都市核ができている。では、常磐新線沿線でどのような街づくりをしようとしたのだろうか。計画段階の1992年2月1日に発行された広報かしわを見てみる。それによれば、「横浜のみなとみらい地区や幕張の新都心地区と並ぶ、新都心となる街を築いていきます」「職場と住まいが接近した、自立性の高い都市づくりをめざします」そして、「首都圏の業務核都市の中心となるよう」にしますと述べる。さらに、運輸政策審議会答申に新線が書き込まれて間もなく作られたパンフレット「21世紀の街づくり常磐新線とともに」を見てみる。それによれば、「21世紀に向けて柏市がめざす将来都市ビジョンとして――人間環境都市、高次産業都市、広域拠点都市」を掲げ、「高度情報拠点都市・インテリジェントシティ柏の形成をめざします」とする。つまりここでも、単に新たな都市核を造るのではなく、情報化などを中心に、広域の拠点都市を目指そうとした訳である。しかし新線の沿線は、横浜のみなとみらい地区や幕張の新都心地区のようにはなりそうにない。
そこで柏市も、何度か計画を見直している。しかし緑園都市構想でも、引き続き「自立性の高い柏市を創る」とし、業務機能や産業を含めた「多機能自立型の都市整備を進めていく」とされている。さらに新線開通後の2008年には、柏の葉キャンパスタウン構想を策定した。ここでも、「まちづくりのコンセプト」のひとつとして「新産業創造都市」を示し、「イノベーション・フィールド都市」を目標の一つとしている。こうした目論見がどうなっているのか、後ほどさらに検討してみる。

苦境に陥った柏市土地開発公社
 柏市はいち早く1992年4月に土地開発公社を設立し、新線沿線の土地取得に備えた。しかし、その後の経済状況の変化もあって、苦境に陥る。もっとも、土地開発公社の苦境は柏市に限らない。そこで国も、土地開発公社経営健全化対策を打ち出した。しかし柏市は、国の指針に沿っての対応では困難であるとして、2001年独自に健全化計画を策定した。さらに05年に計画を見直し、翌06年から20年までの15年間を期間とする土地開発公社の経営の健全化に関する計画を策定した。それによれば、公社自体を解散しないこととし、新線沿線で「続く土地区画整理事業の進捗等を鑑み、総務省による公社の経営健全化団体の指定を受けない」こととした。以前、公社は独立した建物となっていたが、今回訪れると、市の財政部門の部屋に納まっていた。職員も、財政部門の方の兼任になっているとのことだ。また、新たな土地の取得は行っていない。いわば、残務処理の状況である。

縮小した柏たなか地区
 新線は柏市内に、柏の葉キャンパスと柏たなかの2駅を設けた。とりわけ柏たなか駅周辺は、典型的な近郊農業地帯であった。そうしたこともあってか、市もたなか地区については、農あるまちづくりを掲げている。駅近くに、環境コンビニステーションと名づけられた施設を設けている。また、地域の農家と連携して体験農園を行ってもいる。
ところが、柏たなか駅の東側の土地区画整理事業が、2014年に縮小されることになった。この地域は元々、新線とそれに伴う開発に対して疑問の声が強く出されていた所だ。そうしたこともあって区画整理が進まず、縮小されることになった。初めの計画では、面積170ha、人口17000となっていた。それを、面積は42ha減らして128ha,人口は4200人減って12800人とする。いずれも、当初の4分の3となる。
 実際に地域を歩いてみる。区画整理の済んだ駅近くには、新しい住宅も見られる。しかし間もなく、全くの農地や林野が広がっていた。生産緑地もあちらこちらに見られる。さらに進むと、遠くに利根川の土手を望む小規模な土手に出た。そこから利根川方向を見ると、大きく田圃が広がっていた。何の事はない。文字通りの農ある暮らしが、そこにあった。


W 沿線の街の現況


すでに見たように、首都圏新都市鉄道は、北総開発鉄道のように沿線の人口が伸びず、乗客が少ない状態にはなっていない。むしろ、着実に利用者を増やしている。では、沿線の街は、どの様になっているのだろうか。柏と流山の沿線を、歩いてみた。

戸建て→高層集合住宅へ
 何よりも気が付いたのは、どの駅前も、高層の集合住宅=マンションによって占められていることだ。かつて郊外に住まうということは、庭のある戸建て住宅に住むということと同義であった。実際、近辺にある新線が開通する以前に造成された住宅地は、すべて戸建て住宅となっている。
 一つには、住む人の意識の変化があるのかもしれない。ともあれ、運輸省の広報誌『トランスポート』(前出)で運輸政策審議会の委員が、北総開発鉄道沿線の人口が増えなかった理由として「千葉ニュータウンまでいって都心部にあるような高層の3DKに入る、それに巨額な金を投入するという人は少ない。もっとお金を出したって、ちゃんとした土地付きの住宅を求めるでしょう」として、東急の田園都市線を成功例として挙げたことに、隔世の感を覚える。

大型商業施設=ショッピングモールのみ―個人商店が無い
 柏の葉キャンパスと東武野田線との乗換駅である流山おおたかの森駅前には、流行の大型商業施設=ショッピングモールが設けられている。入ってみると、それなりの利用者が見られた。一方で、それ以外には大手のスーパーマーケットとドラッグストアがあるくらいだ。個人の商店を見かけない。商店街が形づくられていない。

あくまでも業務都市?
 当初柏市が、沿線を業務核都市にしようとしたこと、そして、そうならなかった事を見た。しかし現在でも、柏の葉キャンパスタウン構想を策定し、まちづくりのコンセプトのひとつとして新産業創造都市を示し、イノベーション・フィールド都市を目標の一つとしていることも見た。
この近辺には、東京大学柏キャンパスの他にも、元々千葉大学の農場があった。また、国立がん研究センター東病院も開設された。さらに終点のつくばは、研究学園都市とされる。このように、この地が新産業創造都市・イノベーション・フィールド都市となる可能性が無い訳ではない。
 市の計画でも、狭い面積ではあるが業務施設用地が記されている。では、現状はどうなっているのだろうか。駅前に東京大学のサテライトがあり、その1階に、市や民間も参加する街づくりに関係する施設があった。ただ訪れると、お尋ねに対してまともな答えがいただけない。「詳しくはメールで」と言われてしまった。市の計画にある業務施設用地を訪れると、全く手付かずの状態であった。市の北部整備課にお尋ねすると、「頑張るしかない」とのことだった。むしろ、以前からある工業団地そして国道16号沿道で産業集積が進んでいるように見える。

ブランディング戦略?
 カタカナ語を多用した駅名や路線名を、ブランディング戦略と囃す向きもある。相変わらず、カタカナ語はお洒落で格好良いということのようだ。柏・流山両市の資料を見ても、カタカナ語が多用されている。

大鷹のいなくなる?おおたかの森
 沿線は、元々は近郊農業地帯であった。そこに高度経済成長期、東京郊外の住宅地として開発の手が入った。それでも、かなりの農地と自然が残った。新線開通後に引っ越していらしたという何人かの方に伺っても、この地に引っ越された理由の一つに、「自然が残されているから」を挙げた。そうした自然の中でも、柏の葉のこんぶくろ池と流山おおたかの森の市野谷の森は、貴重な自然として、地域の皆様によって保全活動が行われていた。そうしたこともあってか市も、自然を残し公園にすることにした。市野谷の森には、大鷹が生息しているという。そこから、駅名もつけられた。
 ところが訪れると、市野谷の森では、公園が遅々として造られていない。流山市みどりの課にお尋ねしても、「いつ完成するか分からない」と言われた。こんぶくろ池にしても、ただ残されているだけの印象を受けた。このままでは、駅名の由来となった大鷹がいなくなる恐れがある。

益々分散―流山市
 流山市が、かつて常磐線を避けたことにより、市街地が3地区に分散したことを見た。そこで、新線の開通を機に、新たな都市核を造ろうとしたことも見た。市は、東武野田線と新線との接続駅である流山おおたかの森駅周辺を新市街地と位置づけて街づくりを進めている。しかし市都市計画課にお尋ねすると、市役所を移転する計画も中心機能を移転する予定も無いとのことだ。武蔵野線の開通によって新たに市街化した南流山を含めて、むしろ益々分散化しているように見える。
まだまだ途上の街
 沿線を歩いて思ったのは、どの駅周辺も、整備されていない所がほとんどだということだ。比較的街づくりが進んでいる柏の葉キャンパス駅と流山おおたかの森駅周辺にしても、駅から少し離れると、たちまち空き地が広がる。柏たなか駅と流山セントラルパーク駅周辺は、ほとんど手付かずといった感じだ。流山セントラルパーク駅近くに、駅名の由来となった市の総合運動公園がある。さらに進むと、うっそうとした森となっていた。区画整理を行っている県の流山区画整理事務所に伺うと、「まだ区画整理されていない所が、かなりある」とのことだった。

X 東京一極集中と総宅地化


 見たように、開通以降首都圏新都市鉄道は、着実に乗客を増やしてきた。それは、沿線に人口が張り付いたからだ。一方で都市型第三鉄道が、押し並べて高収益を上げていることを見た(U)。このようなことを現出させているのは、全国的には人口が減り始めているにもかかわらず、東京圏には引き続き流入が続き人口を増やし続けているからだ。そして、そのような増加した人口の輸送手段として、鉄道が大きな役割を担っているからに他ならない。
 総務省統計局が国勢調査および人口推計を元にまとめた、都道府県別人口人口増減率を見ても、2010年から2017年にかけて人口が増えているのは、東京圏の埼玉・千葉・神奈川の各県と東京都、後は名古屋のある愛知県と九州での首位を固める福岡県、そして沖縄県だけだ。さらに、同じく総務省統計局が住民基本台帳人口移動報告を元にまとめた、都道府県別転出入者数を見ても、2017年に転入超過になったのは東京圏の埼玉・千葉・神奈川の各県と東京都、後は愛知県と大阪府そして福岡県のみだ。全国的には人口が減り続けている中でも、大都市圏に人が流入し続けていることが、実によく示されている。

100年の遅れを取り戻す?流山
 とは言え、東京圏とて全国的な人口減少と少子高齢化と無縁という訳にはいかない。首都圏新都市鉄道もその点を、2018年〜20年度中期経営計画(前出)の中で率直に述べている。「今後もしばらくの間は沿線開発が堅調に進展しつつも、徐々に成熟期を迎え、人口の伸びが鈍化し、近い将来にはピークに達すると考えられます」と書かれている。
 柏市もまた、全国的な人口減少を考慮しているようだ(北部整備課の話)。実際に柏市は、度々人口予測を下方修正してきた(総合計画など)。そして見たように、たなか地区では、計画面積の25%を取りやめている。
 一方、悲願の東京直結鉄道を得た(前述)流山市は、あくまでも人口増加にまい進するようだ。明治の初め、県庁所在地であったこともあった流山。しかし、常磐線を拒んだことにより人口規模では、近隣の松戸や柏に大きく後れをとった(前述)。それを取り戻すかのように流山は、開発と人口増加にまい進している。かつて、辛うじて市になった(前述)ことが嘘のように、今や人口は20万に迫っている。さらに市域の18%もの開発を進める(前述)。

都心に一番近い森のまちから森が消える
流山市は、政策として都心に一番近い森のまちを掲げる。都心とは、東京のことであろう。さきに見たように、新線沿線の開発は完成していない。結果として、取り分け運動公園近辺には森や農地が残っている。しかし市は、ここも区画整理し宅地化する計画である。そうすれば当然のことに、森は消えてしまう。市も、その辺りは気にしているようだ。市のまちづくり推進課によれば、「崖地の森は残すように計画を変更する」とのことだ。

文字通りの第2常磐線に
 私は新線の計画段階の論述で、新線とそれに伴う開発が順調に進めば、「人口が増える→混雑が高まる→それへの対処→さらに混雑が強まる→その解消、という繰り返しではないのか」と指摘した(『技術と人間』前出)。現状は、正にそうなりつつあるように見える。沿線に人口が張り付いた結果、混雑が強まっている。現在、首都圏新都市鉄道は6両編成となっている。これに対して沿線の自治体から、混雑解消のために8両編成にするよう要望が出されている。元々、常磐線の混雑解消を第一義として新線が計画されたことを見た。新線は、文字通りの第2常磐線と化しつつある。

地権者-住民による違い
 今回、沿線を歩いてお住まいの何人かにお尋ねして、改めて気が付いたことがある。それは、この地に住むようになってからの年数や経緯によって、新線とそれに伴う開発に対する思いが、大きく異なるということだ。
 すでに見たように、沿線は元々は典型的な都市近郊の田園-農村であった。そうした地にも高度経済成長期以降、徐々に宅地化の波が及んできた。新たに造成された住宅地に住むようになった方々の多くは、常磐線を利用して都内へ通勤する会社員であった。それ以前からこの地に住み、農業を営む方々とは、生活様式や価値観が異なってもいた。そのため、新住民という言い方もされた。しかし、庭付きの戸建て住宅に住むこうした方々がこの地を選んだ大きな理由も、この地の自然環境であった。ところが、ようやく手に入れた自然環境に恵まれた庭付きの土地が、新線敷設のための区画整理によって削られそうになった。そのため、こうした戸建て住宅に移ってきた方たちの新線への疑問の声は強いものがあった。その結果、おおたかの森近辺の数ヶ所では、実際に区画整理から除外された。
 この地で元々農業を営んでこられた方の間でも、違いがあるようだ。おおたかの森近くで農業をされている方がおっしゃった。「区画整理による減歩で土地が削られることより、使っていなかった土地が使われるようになって喜んでいる」とのことだ。東武野田線が通り、比較的開発が進んでいた所では、農業を営んでいた方でも、土地が削られることに、それ程の抵抗感は無かったようだ。一方、より近郊農業が盛んであった柏市北部では、農業が続けられなくなるとして減歩に対して強い抵抗が起こった。その結果、計画区域自体が取り消された(前述)。
 新線開通後に住むようになった方は当然のことに、新線の東京直結といった利便性を述べられた。しかしそれでも、この地を選んだ理由として「自然が残っている」を上げる方が少なくなかった。新々住民とも言うべき層が現出しているように思う。

流鉄は観光資源?
 流山市は、このところ一段と観光に力を入れている。大きな力点は、旧市街と流鉄である。どちらも、レトロ感を売りとしている。流山駅の方は、「新線が開通してから、乗客が大きく減った」とおっしゃった。流鉄は観光資源ではなく、市民の大切な足だと思うのだが……。

人口増は善
 改めて常磐新線について調べ、沿線を歩いて思ったのは、相変わらず人口が増える=好い事となっていないかということだ。問われているのは、単に人口を増やすのではなく、どのような地域・街づくりをするのか、ということではないだろうか。流山市都市計画課の方がおっしゃった。「人口が増えることは好い事だ。税収も増えるし」。常磐新線とそれに伴う開発とは、詰る所こういう理念によっていると思えてならない。それは、東京圏の総宅地化に他ならない。






  
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