木造低層密集から高層密集へ

荒川区に見る都心回帰の実相

  地価の高騰などにより東京都区部から周辺県に流出した人口が、地価の下落などにより再び戻りつつあると言われる。典型的な木造低層密集地である荒川区。人口がじりじりと減り続けていたが、1998年を境に増加に転じている。それは同時に、街の高層化を伴っているように見える。荒川区における建築物の変容から、その実相を考えてみる。


T 荒川区の人口


●農村→都市へ
 現在荒川区になっている地域は、江戸-東京の周縁として、永らく農村であった。江戸時代の19世紀前半の人口は、8000人前後であったという(『荒川区の歴史』松平康夫・東京ふるさと文庫・名著出版)。しかし1920年(大正9年)に12万1412人となった人口は、1925年(大正14年)に21万8429人、1930年(昭和5年)に28万0616人、1935年(昭和10年)に32万6210人、1940年(昭和15年)に35万1281人となり、最高の人口となった(都の資料=35区の人口 1908年〜1945年)。ところが、戦災により区の45%が焼失(荒川区『区勢概要』以下『区勢概要』)し、人口は一挙に8万4010人となった(35区の人口 1908年〜1945年=前出)。その後、人口は徐々に回復し、1960年に28万5480人(『区勢概要』ー国勢調査)と戦後における最高を記録した。しかし、その後減少に転じる。1960年代半ばには、年6000人程の減少となる(『区勢概要』1997年版)。しかし、1975年頃から減少傾向も鈍化する(『区勢概要』1997年版)。




図1 都の資料=35区の人口および『区勢概要』1996年版より作成


              

●人口が再び増加に
 図1を見て気が付くのは、戦災による減少を除けば、1940年を最高に人口は減り続けた、ということだ。ところが、1998年を底に増加に転じ、2010年には20万人台を回復する。2015年には20万9087人となる(『荒川区人口ビジョン』荒川区)。いわゆる都心回帰なるものを、実によく示す。




              

U 人口密集の街


・狭い面積と多い人口
 荒川区の面積は永らく10.20kuとされ、23区中、台東区・中央区に次ぐ狭い区であった。しかし2014年に都の計測方法変更により10.16kuとされ、中央区の拡大もあって、23区中2番目に狭い区となった。
 一方人口は、常に多い区となっている。都の資料=35区の人口 1908年〜1945年(前出)によれば、後に大東京市に組み入れられた地域の内、1920年(大正9年)こそ現在渋谷区になっている地域に次いで2位であったが、それ以降は、常に第1位となっている。しかも、1930年(昭和5年)には旧15区で第1位であった浅草区の約24万人を超える。1932年(昭和7年)に35区の一つになって以降、東京市全体の第1位であり続けた。
 このような極めて狭い地域に極めて多い人口は、当然なことに、極めて高い人口密度を生じさせた。それは同時に、極めて狭隘な住宅事情を意味する。しかもその多くは、木造低層住宅あった(その具体的な内容は後に詳しく見てみる)。そのため、こうした木造低層住宅が密集する事は、今に続く区(特に記述が無い場合は荒川区)の課題であり続けている。しかしすでに見たように、荒川区の人口は、1998年まで減り続けた。それに伴い、当然ながら人口密度も下がり続けた。都の資料=35区の人口 1908年〜1945年(前出)および『区勢概要』1996年版および2009年に策定された『荒川区都市計画マスタープラン』(区都市計画課)から、荒川区の人口密度の変遷をたどってみる。
 区の人口が最高となった1940年には、3万5千人/kuであった。戦後の最高人口となった1960年には約2万8千人/kuとなるものの、1996年4月には1万7千600人/kuとなり、人口が底となった1998年には1万6千600人/kuにまで下がった。ところが、先に見たように人口が再び増加に転じるのに伴って、人口密度も上がり始める。2003年には1万7千200人/kuとなり、2008年には1万7千800人/kuとなる(『荒川区都市計画マスタープラン』前出)。そして、住民基本台帳に基づき都が発表した、2020年1月現在の人口密度は2万1千373人/kuとなっている。つまり、戦後最も高い人口密度に近づきつつあることになる。この人口密度は、豊島区・中野区に次ぎ23区中3番目に高い。いずれも、
木造低層住宅の密集が懸念されている区だ。





図2 都の資料=35区の人口、『区勢概要』1996年版、『荒川区都市計画マスタープラン』、2020年1月発表の都の資料より作成

            (戦災による極端な減少を除く)


                                              

                                          
                                                  

V 土地利用調査に見る荒川区の高層化


 このように、再び人口の増加と人口密度の上昇を加速させてきた荒川区。それは具体的に、どのような変化を街にもたらしたのだろうか。都市計画法第6条に基づいて、おおむね5年ごとに行われている土地利用調査をもとに、荒川区の建物の変化を見てみる。この調査は、2006年度までは都から区が委託を受けて現地調査が行われていたが、2011年度からは都が主体となって行っている。     数字は、すべて『荒川区の土地利用』各年版より    なお、明らかに記入・集計間違いと思われるものは訂正した

 
階数別建物の推移 
まず、建物の階数がどのように変化してきたかを見る。

 階数別建物の棟数  表1
低層=1階〜3階 中層4階〜7階高層=8階〜15階超高層=16階〜
1981年43933棟 1301棟91棟0棟
1986年43241棟1532棟142棟0棟
1991年40989棟2208棟265棟0棟
1996年38903棟2738棟354棟2棟
2001年37700棟2977棟450棟8棟
2006年36572棟3054棟546棟18棟
2011年38401棟3118棟661棟32棟
2016年38171棟3169棟768棟34棟


これをグラフにしたのが図3と4である。

              図3

             図4






 中高層の建物が着実に増え続けている事が、実によく示されている。それまでは無かった16階以上の超高層の建物も1996年調査から見られるようになる。一方で、数を減らすつつも、3階までの低層の建物も、引き続き圧倒的多数を占めている。

    
 さらに、階数別の建物を床面積で見てみる。

階数別建物の床面積  表2
低層=1階〜3階 中層4階〜7階高層=8階〜15階超高層=16階〜
1981年5938029.5u 1256563.6u385511.2u0u
1986年5921573.0u1499941.2u618586.2u0u
1991年6557252u2144720u1068458u0u
1996年6480815u2630085u1516793u92996u
2001年5868628u2701175u2029804u456351u
2006年5858264u2858824u2590499u723488u
2011年5559728u2587516u2818685u1098832u
2016年5583835u2645062u3059450u1147746u


              図5



 当然のことながら、棟数以上に中高層の床面積が比率を高めるているのが分かる。しかも2011年には、高層=8階〜15階が中層4階〜7階を上回るようになる。さらに超高層=16階以上も確実に床面積を広げている。一方で低層=1階〜3階は、棟数の減少ほどには床面積を減らしていない。それは、低層の内3階建てが数を増やしているからだ(表3・図6)。ここにも、街全体の高層化を見て取れる。


低層建物の階数別棟数  表3    (階数には地下室も含む)
1階 2階3階
1981年7715棟 33586棟2632棟
1986年6588棟33294棟3359棟
1991年5386棟31030棟4573棟
1996年4285棟28549棟6069棟
2001年3619棟26311棟7770棟
2006年2744棟24597棟9231棟
2011年4338棟23271棟10792棟
2016年3961棟21811棟12399棟


                 図6




W 工場の街から住宅の街へ


零細工場の街
 永らく江戸-東京の周縁であった荒川区。見たように、急速に都市化していった。それは、単に人口を増やしたのではなく、工業化=工場の増加であった。1879年(明治12年)、葦が生い茂る南千住の隅田川近くに官営の千住製絨所ができたのを嚆矢として、隅田川沿いに大きな工場が次々と造られていった。しかし、こうした比較的大きな工場が、荒川区を特徴づけている訳ではない。従業者が10人に満たない零細工場が圧倒的に多いことが、大きな特徴となっている。それは同時に、極めて狭隘な敷地面積を意味する。あるいは、住まいと工場が一体となっている事も特徴となっている(『荒川区史』荒川区)。
 『荒川区史』によれば、1948年には、従業員が1〜4人の工場が、実に全工場の75.1%を占めていた。その後1985年には、従業員3人以下の工場が56.7%を占めている。また2016年の経済センサスによれば、従業員が1〜4人の工場が67%となっている。


減り続ける製造業
  製造業の事業所数は、永らく荒川区の全事業所数中40%程を占め続けた。まさに、製造業の盛んな荒川区を象徴した。しかし、徐々に数を減らす。事業所・企業統計調査および2009年からは経済センサスをもとに、『荒川区史』(前出)および『区勢概要』(前出)に収録された製造業の事業所数の推移を見てみる。



            図7



 このように、2016年には20%を下回るまでに低下した。しかしそれでも、区部全体で製造業が占める割合が7.4%さらに都全体で製造業が占める割合が7%である(経済センサス)ことと比較すれば、なお製造業が荒川区で盛んであることを示す。

 では、このような製造業の衰退は、荒川区の土地利用にどのような影響を与えたのだろうか。再び、
『荒川区の土地利用』を見てみる。専用工場・作業所住居併用工場・作業所専用独立住宅集合住宅の面積の推移を見てみる。これをまとめたのが、表4と図8である。


専用工場・作業所、住居併用工場・作業所、専用独立住宅、集合住宅の面積  表4
専用工場・作業所 住居併用工場・作業所専用独立住宅集合住宅
1981年540828.2u561311.1u1881470.0u789360.9u
1986年446745.0u560541.4u1820840.6u798121.1u
1991年385342u575032u1663217u972765u
1996年360066u522948u1613914u1062854u
2001年278943u477315u1624349u1145657u
2006年228408u439588u1656841u1290090u
2011年179679u385263u1721622u1510364u
2016年167866u348719u1776805u1584150u


             図8



 この35年の間に、専用工場・作業所の面積はおよそ3割程に、住居併用工場・作業所もおよそ6割程に面積を減らした。大工場が大きく減る中で、
住まい兼用の零細工場が比重を高めていることが、ここでも示されている。一方で住宅系の面積は、およそ1.25倍増えている。しかも集合住宅の面積は、2倍を超える増加を示す。単に工場・作業所の面積が減り住宅系の面積が増えたのではなく、集合住宅が大きく増えたことを如実に示している。

             
             
                 

X 異なる高層化

 このように荒川区は、高層の集合住宅を増やしてきた。しかしそれは、一律に高層化したわけではない。
  
市街地再開発事業
 木造低層密集を特徴とした荒川区は、それへの対処が永年の課題であった。それへの対処として考えられた一つの方策が、市街地再開発法に基づく再開発であった。それは主に、町屋日暮里三河島南千住といった、鉄道駅周辺を再開発するものであった。都市整備部の中に再開発課が置かれたことにも、区がいかに再開発に力を入れていたかがよく示されている。
  荒川区と都の資料および建築統計年報2015年版・19年版(東京都)を見てみる。1987年の町屋西地区を皮切りに、事業は進められた。それは同時に、荒川区の高層化の先駆けともなった。西地区の高さは37.3m・12階。翌88年に竣工した東地区の高さは、55m・14階である。それまで木造低層の建物が密集していた所に、突如10階以上の建物が出現したわけである。それでも、20階を超えてはいない。ところが95年に竣工した中央地区は、高さが89m・22階となる。さらに2006年に竣工した南地区は、高さが93m・28階と、一挙に高さが60mを超える。いわゆるタワーマンションの様相を呈することになる。そして、2008年竣工の日暮里中央地区の高さは、153m・40階となり、区内最高の高さとなる(建築統計年報・前出)。荒川区内で高さが140mを超えているのは、これだけだ。2010年竣工の南千住西口地区でも、高さ107m・29階と、100mを超える。2014年竣工の三河島南地区では、高さ120m・34階となっている。これらの構造はいずれも、低層に商業施設や行政関連施設が入り、高層部に集合住宅が入るものであった。
 一方、区東端の汐入-白鬚西地区では、都の防災計画よる再開発事業が、1960年代後半から策定されていた。区もこれに合わせて、南千住東地区で再開発を計画した。そこで建てられた建物も、高さが100mを超えるものであった。
  建築統計年報(前出)によれば、
荒川区内で高さが60mを超える建物は、16ある。このうち、こうした再開発に伴う建物が11を占める。このように、再開発に伴う建物は、荒川区の高層化なかんづく超高層化に先鞭をつけた。しかし再開発のほとんどは、いわゆる駅前開発であり、都市計画法上も高度利用地区となっている。言うなれば、意図された計画的な高層化-超高層化であった。

 現在、荒川区で進行中の高層化は、これとは違うものだ。
 
高さ制限無き高層化
 2009年に策定された荒川区都市計画マスタープラン(前出)によれば、荒川区で用途地域として住居専用地域とされているのは、区西端の台地上にわずかに3.1%あるだけだ。住居地域に指定されている地域8.5%を合わせても、住居系は全体の11.6%に過ぎない。しかも住居専用地域にしても中高層住居専用地域であり、絶対高さによる高さ制限が定められていない。つまり荒川区は、実質、高さ制限が無い状態であった。
 
そのため高さは、基本的に容積率との関係で決まってしまうことになる。その結果、再開発以外の建物でも、高さが60mを超える建物の建設が可能ともなった。一方で、中高層建物の多くは、4〜7階の中層建物であり、続いて8〜15階の高層建物となっている。これらの中高層建物は、どこに建っているのだろうか。Wで見たように荒川区は、製造業の街→住宅地へと変わってきた。しかし衰退したとはいえ、今でも零細工場が多く存在する地域となっている。そのため、用途地域として準工業地域に指定された面積が、全体の61.3%を占めている(荒川区都市計画マスタープラン・前出)。しかも、住居併用工場・作業所が多くを占める住居併用という性質上、数が減っても、用途地域としては準工業地域のままということになっている訳である。そうした零細工場が散在する所に、多くの中高層建物が建てられた。しかも、かねてよりの低層住宅が大きく数を減らしているわけでもない。つまり、相変わらず低層住宅が密集し、住居併用の零細工場が散在する所に、中高層の建物が次々と建てられた。ここに、荒川区における高層化の特徴が凝縮されている。

 こうしたことを、区も認識している。では、区はどのような方策をとったのだろうか。



Y 解消しない木造密集

 木造密集に対して区は国や都と連携して、主に次のような施策を行っている。

密集住宅市街地整備促進事業
 この事業は、国土交通省住宅局所管の事業である。現在、荒川および町屋・東尾久地区のみが対象地域になっている。区によれば、近く南千住や三河島地区も対象地域にする予定とのことだ。消防活動が困難な区域において道路の拡幅を行う事業と、燃えにくい建物への建替えを支援する2本柱となっている。道路の拡幅では、優先整備路線に指定した道路の幅員を6mに広げる。燃えにくい建物への建替えでは、個別の建替えだけでなく、
協調建替え共同建替えという仕組みも設けられている。協調建替えは、お隣同士など複数の地権者が、一体性に配慮した設計に基づいて各戸の敷地で建替える。一方共同建替えは、複数の地権者が敷地を共同利用して一つの建物に建替える。敷地面積は、100u以上とされている。

不燃化特区
  この事業は、都の木密地域不燃化10年プロジェクトに基づく。大地震など災害時に特に危険とされる地区について不燃化特区=不燃化推進特定整備地区の指定を受け、老朽木造建築物の建替えや除去について、助成金や税金の減免を行うものだ。地区については、密集住宅市街地整備促進事業と同じく荒川および町屋・東尾久地区が指定されている。当初は2020年度までの制度であったが、5年延長されて2025年度までとなった。

木造および非木造建物耐震化推進事業
 密集した市街地にある建物のうち、大規模地震により倒壊などの恐れがある建物について耐震診断を行い、耐震補強工事や耐震建替え工事を支援する。1981年以前の旧耐震基準で建てられたものが対象とされている。また、非木造の一般緊急輸送道路沿道建物は、道路幅員の概ね2分の1以上の高さのものが対象とされている。これは、地震により建物が倒壊しても、道路の半分以上の通行を確保するためである。

都市防災不燃化促進事業
 この事業は、国土交通省都市局所管の事業である。避難路の周辺を不燃化促進区域に指定して、その区域内の建物を不燃化し、避難路も含めて延焼遮断帯を作ろうとするものだ。不燃化促進区域の範囲は、避難路から30mとされている。これまでに、小台通り・尾竹橋通り・千住間道といった区の骨格を成す道路の沿道で事業が完了している。助成の対象となる建物は、2階以上で高さは7m以上とされている。
 
 各事業の名前にも示されているように、区の力点は主として地震をはじめとして防災に置かれている。それは、区の組織名にも示されている。東日本大震災などもあって、永らく使われた都市整備部から防災都市づくり部に名称変更された。

 では、密集自体はどうなっているのだろうか。
街を歩いても、密集状態が改善してるようには見えない。それどころか、根強い戸建て人気を反映してか、あちらこちらで戸建ての新築を見かける。このような施策は、具体的にどのくらいの実績があるのだろうか。これらの制度の利用がどのくらいあるのか、区は具体的な数字を一切公表していない。しかしお尋ねすると、「実際に補助を受け施工された件数は、それほど多くない」とのことだ。協調建替え共同建替えにしても、地権者相互の所有権との絡みもあって、「数える程しかない」とのことだ。
             
細街路拡幅整備事業
  荒川区には、道路の幅員が4mに満たない道路が多くある。これは、
農村→都市化した歴史をよく示す。都市化する前の荒川区は、ほとんどが水田であった。そのあぜ道が、そのまま道路になったためである。区内の道路延長349qのうち幅員が4mに満たない道路は、116qになる。これに対して区は、1984年に細街路拡幅整備要綱を定め、建て替え時に拡幅への協力を求めることにした。その結果2019年3月末時点で、細街路のうち約44%が拡幅された(『区政ポケットブック』荒川区)。言い換えれば、未だ細街路の半分以上が残されていることになる。さらに荒川区では、道路に接していない敷地も少なくない(『荒川区の土地利用』前出)。



Z 治まらない中高層密集

 このように密集状態が解消しない一方で、高層化も着実に進んだ。高層化-集合住宅の増加に伴って、地域との軋轢も生まれた。これに対して区は、どのような方策をとったのだろうか。

高度地区
 荒川区では、ほぼ全域が高度地区に指定されている。ただ、より低層になる第1種高度地区は無く、第2種第3種のみであり、しかも第2種は、区北西部の隅田川沿いにある、あらかわ遊園周辺の1か所だけだ。さらに、主要道路の沿道を中心に最限度は定めれているものの、最限度は全く定めれていない。つまり高度地区指定は、高さを制限することにはなっていない。もちろん、高度地区指定によって、北側斜線制限に近い制限がかかることにはなる。しかし、それ以上ではない。その辺りを区都市計画課にお尋ねしたが、明確なお答えをいただけなかった。

市街地整備指導要綱
 この要綱は、元々あった開発指導要綱を1983年に改めたものである。戸建てについては一団の土地で6戸以上、集合住宅については15戸以上を対象とする。面積については、350u以上の宅地開発、延床面積1500u以上の建物が対象となる。5階建て又は高さ15m以上の建物には、外壁の後退が規定されている。宅地の面積については、1棟当たりの面積を60u以上としている。元々の要綱名にも示されているように、新たな開発しかも一定以上の開発だけが対象となっている。
 ・墓地も高層化  街の高層化に合わせるように、荒川区にも納骨堂形式の墓地が造られるようになってきた。さらに、機械式で多量に納骨するものも現れてきた。2010年の改訂では、「墓地・納骨堂の来客用の駐車施設は、墳墓等の総区画数の5%以上の台数分を確保すること」とされていた。ところが、2018年の改訂では「荒川区墓地等の構造設備及び管理の基準等に関する条例施行規則に定める基準に適合すること」となった。その基準によれば、必要な駐車施設数は、墓地が墳墓等の総区画数の2%以上、納骨堂は1%、機械式の場合は0.2%となっている。つまり、大きく基準が緩められたことになる。区生活衛生課のお話では、「機械式については後から書き加えられた」とのことだ。0.2%に大きく緩和された点をお尋ねすると、「当時の担当者が既にいないので分からない」と言われた。いずれにせよ、建物だけでなく墓地も高層化していることが見て取れる。

  集合住宅の増加とそれに伴う高層化については、以下のような要綱および条例が制定された。

中高層建築物の建築に係る紛争の予防と調整に関する条例
 1978年に制定された。中高層建築物は、高さが10メートルを超える建築物と定義されている(第2条)。この条例により、建築現場で見かける標識=建築計画のお知らせが義務付けられた(第5条)。これにより中高層建築物の建設を予め地域に周知し、条例名にある通り、中高層建築物の建築に係る紛争を予防・調整することに主眼が置かれている。
                                       
荒川区マンション建設に伴う地域環境の配慮に関する要綱
  荒川区においても
集合住宅の増加とそれに伴う高層化が本格的に懸念されだした1999年に制定された。延べ床面積が5000u以上の新築マンションが対象とされた。要綱名の通り、周辺環境への配慮に力点が置かれている。この要綱は2006年に大規模マンションの建設計画に係る地域における生活環境の配慮のための事前協議等に関する条例=荒川ルールに改訂された。対象は、延べ床面積が3000u以上かつ高さが10mを超えるものとなった。ここでも、比較的大規模な開発とそれに伴う地域環境への対処に主眼が置かれている。

                                          
荒川区集合住宅の建築及び管理に関する条例
 2007年に制定された。対象は、住戸の数が15以上となっている(第2条)。2012年には施行規則を改訂し、住戸の数が100以上かつ10階以上の集合住宅には、備蓄倉庫を設置することとした(第10条)。

 これらの要綱・条例について総じて言えるのは、比較的大規模な中高層建築物とその開発が対象となっている、ということだ。その辺りを区都市計画課にお尋ねすると、「
荒川ルールの対象となるのは、年数件にとどまる」とのことだった。備蓄倉庫にしても、「住戸の数が100を超え設置義務が生ずるのは年数件」とのことだ。中高層密集そのものを解消することにはなっていない。


    

[ 絶対規制へ-地区計画

 このように区も、様々な方策をとってきた。しかしそれらの要綱や条例は、狭隘な敷地-建て詰まりや高さそのものを規制する内容にはなっていない。その結果、
建て詰まりが解消しない一方で、街は益々高層化した。それだけではなく、再開発以外にも突出した超高層が建つことにもなった。そこで区も、絶対的な規制に乗り出す。
  2008年の南千住1丁目・荒川1丁目地区を皮切りに、都市計画法に基づく地区計画の本格的な制定に乗り出した。その内容は、概ね次のようなものである。
・地区施設としての道路
 地区の骨格となる道路を地区施設と位置づけ、4〜6mの幅員を確保する。
・建物の用途を制限
 風俗関係の用途を禁止。
・建物の形態・意匠を制限
 派手な色は禁止。屋外広告物は腐食しにくい材質で景観を損なわないものとする。
・垣・さくの構造
 災害時に塀が倒壊するのを避けるため、生垣やフェンスを基本として、コンクリートブロックを使う場合は60p以下とする。
・壁面の後退
 緊急車両が進入できるように、主要生活道路沿いは道路中心から3mづつ後退させ、両側の壁面間を6m確保する。
・敷地面積の最低限度を定める
 新たに敷地を分割する場合は、南千住1丁目・荒川丁目地区は50u、他は60u未満にする事を禁止。
・建物の最高限度を定める
 地域ごとに、高さは16m〜60mを限度とする。

 こうして、地区計画が定められた地区内では、風俗関係や派手な建物・ブロック塀は絶対的に禁止されることになった。敷地について区は、地区計画外でも1区画を60u以上に規制する予定だ。少々複雑なのが、高さの制限だ。

地区ごとの高さの最高限度  
・明治通り・尾久橋通り沿いなど               高さの限度 50〜60m  主として商業地域に指定されている地区
・主として近隣商業地域に指定されている沿道地区   高さの限度 30〜45m
・住宅と町工場・個人商店が混在している地区      高さの限度 16〜30m     複合住宅地区
  複合住宅地区は、敷地面積によって高さの最高限度が異なっている
   敷地面積300u未満         高さの限度16m=5階
   敷地面積300u以上〜900u未満 高さの限度21m=7階程度
   敷地面積900u以上         高さの限度30m=10階程度

区の資料を元に概略的に図示すると次のようになる
                

  
 このように区も、漫然と高さを制限するのではなく、地域ごとに高さの制限に差を設けた。問題は、その中身だ。

\ 実体無き高さ制限


●珍妙な容積率の10分の1m基準
 区によれば、高さの最高限度は容積率の10分の1mを基準にしているのだという。そもそも、容積率と高さmという全く異なる単位を基準にする事に疑問を覚える。区の説明によれば、民間に委託して
区内に現に建っている集合住宅の建ぺい率を調べたところ、平均は59.29%、最高は83.95%、最低は32.21%であった。そこで、最建ぺい率で建っているものを基準に、容積率による高さ制限を満たす高さが、ほぼ容積率の10分の1mに当たるのだという。実に分かりづらい論理だ。
 確かに、この基準によって無制限に高く建てることはできなくなる。しかし何のことはない。最建ぺい率で建っている=つまり最も高く建っている集合住宅の高さを追認しているに過ぎない。

●荒川2・4・7丁目地区計画に見る高さ制限の実相
 明治通り沿道地区の最高限度は、60m=20階程度とされている。ところが、地区計画制定時に最も高い建物は15階であった。また尾竹橋通り沿道地区の最高限度は、45m=15階程度とされている。ところがここでも、地区計画制定時にこれを越える建物は無かった。さらに、藍染川通り沿道地区=京成線沿いの最高限度も45m=15階程度とされているが、ここでも地区計画制定時にこれを越える建物は無かった。つまりこれらの地区では、地区計画によって高さが抑制されるわけではない。それどころか、現状よりも高く建てられることになる。

複合住宅地区における高さ制限
  複合住宅地区は、住宅と町工場・個人商店が混在している地区とされる。区域の61.3%が準工業地域とされる荒川区。正に、住宅の間に町工場が点在し、そこに高層建築物が次々と建ってきた今日の荒川区の問題が凝縮している地区だ。では、その地区の高さ制限はどのようになっているのだろうか。
 すでに見たように複合住宅地区は、敷地面積によって高さの最高限度が異なる。とはいえこの地区でも、高さは絶対的に制限される。その結果、地区計画制定時に唯一、地区計画で定めた高さの最高限度を越えた建物=既存不適格な建物が11棟存在することになった。一見、高さを抑制するように見える。本当にそうなのだろうか?先に見た区の容積率の10分の1m基準を元に見てみよう。
 敷地面積が900u以上なら高さ30m=10階まで建てられる。この地区の最高容積率は300%なので、容積率の10分の1mという基準が適用されていることになる。一方、これより狭い敷地では、より低い高さが設定されている。一見、高さを制限しているように見える。しかし、先の区の集合住宅の建ぺい率調査に見られるように、建ぺい率が最低の30%台の集合住宅は少数だ。建ぺい率の平均は約60%となっている。建ぺい率を60%にとれば5階程度、43%にとれば7階程度まで建てられることになる。見事に、地区計画で定めた高さの最高限度に当てはまってしまう。何のことはない。ここでも、現状を追認しているに過ぎない。

              
総合設計制度ですべては無に
 高さについてはさらに、建築基準法59条の総合設計制度による緩和が適用される。この制度を適用するために区は、1993年に荒川区総合設計制度許可要綱を制定した。もっともこの要綱、規制に関する記述に明らかな誤りが数か所見られる。区建築指導課にお尋ねすると、「要綱としては成立している」とのことだ。荒川区には
低層住居専用地域が無いので、緩和されるのは斜線制限だけだ。しかしそれでも、地区計画で定めた高さの最高限度が、全て意味を成さなくなる。その辺りは、区も気にしているようだ。今のところ、区により認められた総合設計は無いとのことだ。要綱自体も、2005年以降改定されていない。もっとも、都の扱いとなっている数棟が荒川区内にある。さらに、唯一の区営-区民住宅=22階建て(後述)は、総合設計で建てられた。しかし、敷地面積が1万u超ということで、都の扱いとなっている。
  
・延焼遮断帯としての沿道地区
 概略図のように沿道地区は、地区計画が定められた地域を囲むように設定されている。区によれば、内側の地区よりも一段と高い建物によって延焼遮断帯とするのだという。実際、尾竹橋通りなど区の中軸を成す道路沿いは、既に15階程度の高層建物が連なる様相を呈している。

日影規制も無くなる
 街の高層化に伴い、荒川区でも都の日影規制条例に基づく日影規制が、区域内のかなりの部分で行なわれている。荒川2・4・7丁目地区でも、明治通り沿いや尾竹橋通り沿いの沿道地区を除き、日影規制がかけられていた。ところが、都電荒川線に沿う形で計画されていた補助90号線が具体化されたのに伴い、補助90号線沿いが新たに沿道地区とされ、日影規制が外された。一見、当然のことに思える。しかし、明治通り沿いや尾竹橋通り沿いは商業地域であり、日影規制から除外されるのは当然なことだ。ところが、補助90号線沿道地区は商業地域にはならない。区にお尋ねすると、「将来にわたって商業地域になる見込みが無いから」とのことだ。ならば、そのまま日影規制の対象のままで良かったように思える。しかし区は、他の沿道地区に揃えた。また区は、最低限高度を設ける、つまり高く建てるように誘導することを日影規制を無くす理由にしている。区はあくまでも、
沿道地区は高い建物にしたいようだ。この結果、既存不適格な建物2棟が適格となった。

過度な私権制限論の矛盾
 荒川区は、地区計画をもって絶対的な規制に踏み出した。その結果、風俗店は禁止され、敷地面積には最低限度が設けられ、建物・看板の意匠は制限され、ブロック塀は禁止されることになった。ところが何故か高さだけが、現状を追認するどころかさらに高く建てられることになる。これに対して区は、「過度に私権を制限しないため」と言う。つまり、「高く建てたい方もいる。そうした方の私権を制限できない」という訳だ。一方で厳しく絶対的な制限を設けながら、高さに関してだけは過度な私権制限論を持ち出す。全く整合性の無い論理と言わざるを得ない。

] 集合住宅の防災と地域住民の意識-思い

 2011年3月11日の東日本大震災を受けて荒川区は、2013年1月に区内の集合住宅を対象に、防災対策アンケートを行った。なお、以後同じような調査は行なわれていない。したがって今でも、このアンケートが「安全安心都市あらかわの実現に向けた施策に取り組んでいくための基礎資料」(防災対策アンケート)となっている(区防災課の話)。この調査の標本数は466件である。有効回収数は177件である。まず、回答数の少なさが気になる。40%程しか回答がなかったことになる。

●心許無い防災対策
 消防法により、収容人員‐居住者50人以上の共同住宅は、防火管理者を置き、消防計画を作成することが義務付けられている。ところが区は、対象となる共同住宅の実数を把握していない。荒川消防署にお尋ねしたが、「実数は公表していない」と言われた。荒川消防署のお話では、防火管理者の業務を委託している建物も一定数あるとのことだ。

防災対策アンケート(前出)の中で気になる点を、いくつか見てみる。
・防災用の備蓄物資倉庫がほとんど無い
 有効回収数177件のうち、防災用の備蓄物資倉庫が無い建物は132棟=74.6%にのぼる。有るは27棟=15.3%である。倉庫は無いが、集会室や各世帯に配布している物資があるは9棟=5.1%である。わからないとの回答も5棟=約3%ある。これを円グラフにしたのが、図9である。

・居住者同士の交流が無い
 防災訓練以外にマンションで定期的に実施している行事があるかという問いに対して、あるは44棟=24.9%にとどまる。一方、無いは129棟=72.9%にのぼる。未回答は4棟=2.3%となっている。これを円グラフにしたのが、図10である。行事が無いからといって、必ずしも居住者同士が親密でないとは言えない。しかし心許無い。さらに見てみよう。


図9 図10

・防災対策に取り組んでいない
「マンション全体で防災対策に取り組んでいますか」という問いに対して、取り組んでいるが86棟=48.6%あった。しかし、取り組んでいないも81棟=45.8%ある。わからないも8棟=4.5%、未回答が2棟=1.1%となっている。これを円グラフにしたのが、図11である。

・防災訓練の参加が極めて少ない
 防災訓練に取り組んでいると回答した86棟(前項)のうち、定期的に防災訓練を行っているのは66棟であった。その訓練に参加している世帯割合は、どのようなものだろうか。3割くらいの33棟=50%が一番多く、5割=半分くらいが10棟=15.2%で続く。しかし、2割くらいが7棟=10.6%、役員のみが6棟=9.1%、1割くらいが2棟=3%にのぼる。これを円グラフにしたのが、図12である。

図11   図12

・防災の担い手がいない
 防災対策に取り組んでいないと回答した81棟(前々項)の理由はどのようなものなのだろうか。複数回答になるが、中心になる人がいないが最も多く31棟。対策が分からない・防災用品を置く場所がないが共に28棟、住民の関心が無いが19棟、資金が無いが17棟、意見がまとまらないが14棟となっている。これを棒グラフにしたのが、図13である。実に深刻な実情が示されている。

・地域への協力姿勢も見られる
 見たように、集合住宅の防災対策は、極めて心許無い。
アンケートに回答さえしなかった6割程の実情は、さらに厳しいことが推測される。しかし、全く希望が無いわけではない。大規模な浸水や火災が発生した場合に、近隣に住んでいる方や通行している人の緊急的・一時的な避難に協力できるかとの問いに、41.8%が協力できると答えている。もっとも、協力できないも20.9%ある。また、分からないも26.6%ある。少なくとも、地域と全く協力したくないという訳ではないようだ。これを円グラフにしたのが、図14である。こうした芽を、地域の防災に活かしたいものだ。


図13  図14




●住民は高い建物を望んでいない
 では、中高層の集合住宅の増加を、周辺の住民はどう見ているのだろうか。\で見たように区は、補助90号線の具体化に伴って新たに沿道地区を設け、高さ制限を緩和した。区は2014年8月、沿道地権者を対象にアンケートを行った。総配布数699に対して回収は250である。回収率は35.8%である。ここでも、回答数の少なさが気になる。
 「どのような建物によるまちづくりが望ましいと思いますか」という質問に対して、低層(1〜2階建て)の建物が中心を選んだ方が86票で最も多かった。次いで、中層(3〜5階建て)の建物が中心を選んだ方が70票となっている。高層(6階建て以上)の建物が中心を選んだのは20票だけだ。無回答の70票を差し引くと、回答した方の9割近くが低層ないし中層までの建物を望んでいることになる。これを円グラフにしたのが、図15である。区は沿道地区にすることで、高さの最高限度を30m=10階建て程に緩和する。しかし、現にお住まいの方の多くは、それ程の高層化を望んでいないことになる。区の望む高さ30m=10階建てが連なる街との差はあまりにも大きい。


             
図15



住民が高層建物を望まない理由
 なぜ沿道地区にお住まいの方は、高層の建物を望まないのだろうか。直接の質問は無いが、他の質問に対する回答に、その理由をうかがわせる回答が見られる。それのよれば、「高い建物が建ち並ぶと後背のまちの環境が悪くなる」「需要がないのでこれまでの16mの高さで十分」「高い建物を建てるのはコストがかかる」、といった理由が挙げられている。これらの回答は、あまりにも自然なご回答に思える。なぜなら、この地域にお住まいのほとんどの方は、せいぜい2〜3階の木造住宅をお建てになって暮らしているのだから。だからこそ、この地域は地区計画で複合住宅地区とされていたのだ。


]T 見えない方向

●工業-製造業はどうするのか見えない
 
Wで見たように荒川区は、工業の街→住宅地へと変貌してきた。それは同時に、今日に至る荒川区の都市化の土台を造った製造業の衰退を意味した。しかし製造業は、今でも荒川区を特徴づける産業となっている。依然として、用途地域としては区域の61.3%が準工業地域であることが、その事をよく示している。そのため様々な場面で、モノづくりのまち あらかわが唱えられている。区も製造業に対して、様々な施策を行っている。しかしそれは、国や都の制度とも連携した財政的な助成や経営相談・支援が主となっている。

一貫しない政策
 荒川区では、都市計画法による特別用途地区として、準工業地域の中に特別工業地区を設けている。そのために、荒川区特別工業地区建築条例が定められている。準工業地域の中でも比較的住居系の建物が多い地区を対象としている。ごく簡単にいえば、住環境を守るために、著しい騒音や振動を出す建築物を規制しようとするものだ。住環境政策としては、首肯しうる。しかし製造業の側からみると、産業の制限を意味する。荒川区特別工業地区建築条例の別表には、建築してはならない建築物の事業が記されている。それによれば、かわら、れんが、ガラス、動力つちを使用する鍛造などが挙げられている。既に在る工場については、既存不適格となる。これらの既存工場は、改築や増築についても、厳しい制限がかけられている。区建築指導課によれば、これらの既存不適格工場が「具体的にどのくらいあるのか、把握していない」とのことだ。ただ、「増改築の申請は、ここ数年無い」とのことだ。ここにも、荒川区の製造業の衰退が表れている。
 問題なのは、区は住居系の街づくりに力点を置くのか、製造業の保護・育成に力を入れるのか分からないことだ。荒川区特別工業地区建築条例で制限された製造業に対する具体的な施策は、全く無い。これでは、特別工業地区にある既存不適格の事業所が自然消滅するに任せていることになる。

新規住民と製造業との軋轢
 このような状況の中で、新たに住宅を購入された方と、元々製造業を営んでいる方との間に、軋轢も生じている。区経営支援課でも、そうした事を把握している。しかし『荒川区の環境』(区環境課)には、全体の苦情だけで、製造業と周辺住民との軋轢に関する数字が無い。苦情の窓口となっている環境課にお尋ねすると、「製造業と周辺住民との軋轢だけを集計してはいない」とのことだ。ただ、「多いという程ではない」とのことだ。また、「集合住宅に住んでいる方からより、むしろ戸建ての方からほうが多い」とのことだ。ここにも、相変わらず木造密集が解消していないことが見て取れる。


●住宅政策が見えない
 区は1993年、荒川区住宅基本条例を制定した。第1条(目的)に「荒川区における住宅政策の基本理念及び施策の基本となる事項を定める」とあるように、文字通り区の住宅政策の基本となっている。そして、「地域産業と住環境が調和した地域社会の維持及び発展に寄与することを目的」としている。ここでも、地域産業との調和が謳われている。しかし、必ずしもそうなっていない事は既に見た。また第6条により、荒川区住宅マスタープランが策定されることになった。これまで、数次の住宅マスタープランが策定された。

公的住宅の少ない荒川区-増えない公的住宅
 荒川区には、公的住宅が少ない。そのことは、区も認識している。2001年に策定された第3次住宅マスタープランによれば、「公的住宅の全戸数に占める割合は7.9%と区部平均の1/2程度」である。それ以後も、増えていない。これは、急速な都市化とりわけ関東大震災を契機とした人口の急増により、計画的に公的住宅を建てる間もなく市街地化した事が大きく影響しているように思う。荒川区にも、公営住宅法にもとづく区営住宅があることはある。しかし借り上げを含めても、143戸しかない。しかもこの数は、永年変わっていない。また中堅所得者を対象に、特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律にもとづき、1993年から区民住宅が設けられた。しかし、借り上げ型については2017年に終了した。2021年4月に再編された区の住まい街づくり課住宅係にお尋ねすると、「元々、人口減対策だったので」とのことだった。そもそも、住宅政策というより人口対策だった訳だ。皮肉なことに、唯一の区民住宅への入居が始まった1998年には、区の人口は増加に転じていた。以後公的住宅は、約4000戸の都営住宅が中心となる。他はもっぱら民間による開発に委ねられ、今日の集合住宅の増加へとつながる。さすがに、総合設計制度も活用して区が独自に建てた22階建ての区営-区民住宅は、「建物の長寿命化を検討していく」(2019年策定の第4次住宅マスタープラン)とされている。

9割が落選
 区営住宅は、どのようなものであろうか。借り上げ型が3棟、区立が2棟で計143戸うち6戸が障がい者用となっている。障がい者用6戸を除くと、いずれも入居対象は高齢者となっている。つまり区営住宅は、住宅対策ではなく高齢者-福祉政策の一貫となっている訳だ。従って所管も住宅関連部局ではなく、福祉部福祉推進課となっている。募集案内や福祉推進課のお話では、毎年10人前後が入れ替わるそうだ。そこで、空き室待ち登録者が毎年15人程募集される。これに対して、申し込みが100人程あるとのことだ。登録されたからといって、確実に入居できるわけではない。登録はあくまで登録に過ぎず、登録者の中から実際に入居に至るのは10人程(前述)だ。したがって、応募者に対する入居割合は約1割ということになる。言い換えれば、100人の応募者の内90人が涙を呑んでいることになる。
 もちろん、建物を建てることは、助成や援助とは違って莫大な費用がかかる。そこで福祉推進課に、「財政が許すなら、区営住宅をもう少し増やしたいですか」とお尋ねしたが、明確なお答えをいただけなかった。これでは、住宅政策だけでなく福祉政策も無いことになる。荒川区住宅基本条例(前出)の第8条=公共住宅の整備には、「区民の住生活の安定及び向上に寄与するため、自ら住宅を供給し、民間の住宅を借り上げ、若しくはこれら住宅を適切に管理し、又は他の公的住宅の供給主体に対して住宅建設・改善等について働きかけることにより、公共住宅の整備に努めるものとする」と明記されているのだが……。
 
面的住宅政策が見えない
 荒川区は、都市化し尽くされている。そのため、2000年前後を中心に駅前で進められた再開発を除けば、面的な住宅政策が進められなかった。その政策は勢い、制限-規制助成-援助が中心となった。それはある意味、やむを得なかったように思う。しかし荒川区でも、面的な住宅政策を展開する可能性が無かったわけではない。後ほど更に見てみる。


●人口をどうしたいのか見えない
 Tで見たように、大きく言えば荒川区の人口は、1940年の35万人を最高に減り続けた。しかしそれは、必ずしも悪いことだけではなかったように思う。なぜなら、Uで見たように荒川区では、人口密集が永年の懸案であったからだ。減った人口の下、懸案の密集-建て詰まりを解消できる可能性もあった。しかし、人口規模をどの位にするのか探られた形跡は見られない。それどころか、減り続ける人口を前に、人口減少を抑える政策がとられた。また人口減少を受けて、「開発によって、無理やり住民を追い出すことは止めようということにしていた」とのことだ(区都市計画課の話)。眼前で進む人口減少に、「何とかしたい」という行政としての気持ちも分からないではない。しかしこれでは、人口規模をどうしたいのか、施策がないことになる。

 区は2016年、荒川区人口ビジョンを策定した。これは、少子高齢化と人口減少を危惧した国が、2014年にまち・ひと・しごと創生法を公布し、各地方公共団体にも地方人口ビジョンを策定するすることを求めたことによる。つまり荒川区人口ビジョンは、少子高齢化と人口減少対策が主眼であり、荒川区固有の人口密集とそれに伴う問題が主眼とはなっていない。
 では、荒川区人口ビジョンは、区の人口規模をどのように見ているのだろうか。目指すべき将来の方向性として、こう述べる。「人口減少に対応し、持続可能で活力ある地域社会を築いていくためには、大きな方向性として、出生率を向上させること、定住化を促進することが必要であり、これらを同時に進めていくことが重要となります。」 つまり区は、あくまでも人口を維持-増加させたい、ということになる。これは、既に見たように荒川区人口ビジョン自体が、そもそも国の少子高齢化と人口減少対策に基づいていることから来る必然の結論であろう。では、区は将来の人口規模を、具体的にどの位に置いているのだろうか。

目指すは23万人?
 荒川区人口ビジョンは、2015年から2060年までの将来人口を推計した。出生率及び社会移動率の異なる4つのパターンを検討している。ごく大雑把に言えば、出生率と社会移動率を低く設定したものから高く設定したものまでのパターンとなっている。パターン1は、出生率や人口の定住率が現状のままで経過した場合を想定している。合計特殊出生率は、1.15とされている。それによれば、2025年〜30年をピークに人口減少が進み、2060年には17万8846人になると推計する。唯一、2015年の約21万人を下回る。この推計は、国立社会保障・人口問題研究所の推計とほぼ同じである。パターン4は、出生率の向上や定住化促進施策を実施したことにより、合特殊出生率が国が希望する1.80を達成することを想定している。その結果、2060年の人口は25万5692人まで増える。このうち区は、パターン2を想定人口とした。合計特殊出生率は1.43となり、流入人口は直近5年間の平均1435人が続くことを想定している。2060年の人口は、22万9358人=約23万人になる。
 パターン2を選んだ理由を、所管の区総務企画課に尋ねた。「楽観でもなく悲観でもなく」とのことだった。区は、あくまでも人口を増やしたいことになる。お尋ねすると、「人口は少ないより多い方が好い」と言われた。荒川区も、人口増は善という考えのようだ。


●集合住宅の建て替えをどうするのか見えない
 分譲マンションが、都市における住まい方のひとつとなって久しい。それは同時に、建物の老朽化-管理・建て替えの問題化を意味する。そこで都は1919年3月、東京におけるマンションの適正な管理の促進に関する条例を制定した。それに合わせ荒川区も、20年3月荒川区東京におけるマンションの適正な管理の促進に関する条例に基づく管理状況届出制度実施要領を制定した。これにより、届出対象のマンションは、管理状況を区に届けることが義務となった。要届出対象は、1983年12月31日以前に新築された分譲マンションのうち6戸以上のものとされている。これらの条例・要領は、名前の通りあくまでもマンションの管理に主眼が置かれており、建て替えについては述べられていない。
  2021年4月から所管となった区住まい街づくり課住宅係によれば、区内の対象は115件ある。届出期限の20年9月末までに届出があったのは、95件とのことだ。20件の届出が無かったことになる。条例・要領では、管理状態の良くないマンションには、助言や勧告が行われることになっている。区住宅係によれば、21件の助言を行ったとのことだ。内容としては、修繕積立金が無い、管理組合の総会が開かれていない、そもそも管理組合が無いなどとのことだ。ここでも、分譲マンションの心許無い状況が見て取れる。
 荒川区でマンションが増えてきたのは、比較的遅かった第3次住宅マスタープラン(前出)によれば、1975年以前に建てられたマンションの戸数は、700戸に過ぎない。そうしたこともあって、荒川区ではこれまで、マンションの建て替えは大きな問題とならなかった。しかし荒川区でも、そう遠くない内に建て替えが問題となってくる。今のところ、建て替えに関する制度は無い。その点を住宅係にお尋ねすると、「国の建て替え制度を活用していく」とのことだった。


●機を逸した荒川区

未完に終わった区画整理事業
 Yで見たように、荒川区を全体で見れば、農道がそのまま現在の道路になったような所が多い。また区画自体も入り組んだ所が多い。しかしそれは、荒川区の一面でしかない。荒川区では比較的早くから、区画整理事業が行われてきた。
 『荒川区史』(荒川区・以下『区史』)を見てみる。まず1892年(明治25年)、東京市街地に隣接している南千住南部で区画改良事業が行われている。1897年(明治30年)、土地区画改良ニ関スル法律が制定された。さらに1899年(明治32年)、耕地整理法が制定される。これらの法律は名前の通り、元々は農耕地の区画改良を目的としていた。しかし、市街地に近接する地域の宅地化条件整備のためにも使われたのだという(『区史』)。1909年(明治42年)三河島耕地整理共同施行組合が設立され、次いで1912年(明治45年)日暮里耕地整理組合が設立され、区画整理事業が始まった。
 1919年(大正8年)都市計画法市街地建物法が制定される。これにより、本格的な都市づくりが始まる。さらに1923年(大正12年)の関東大震災の復興政策として特別都市計画法が公布された。これにより荒川区では、1925年(大正14年)から1930年(昭和5年)にかけて6組合、さらに1940年(昭和15年)と1942年(昭和17年)にそれぞれ1組合の区画整理組合が結成された。また尾久の一部は、現在は北区となってる滝野川町の組合の一部に組み込まれている。
 このように荒川区では、比較的早くから区画整理事業が行われてきた。しかし、その後が続かなかった。その後は、戦後復興として1950年(昭和25年)に日暮里地区で区画整理が行われ、また1962年(昭和37年)、都市改造計画として西日暮里地区で区画整理が行われた。これが、荒川区における区画整理事業としては最後となる。なぜ、区画整理事業は進まなかったのだろうか? 『区史』にも記述が見られない。区にお尋ねしたが、「分からない」とのことだった。現在、区には区画整理事業を担当する部署も無い。
 下の概略図に見るように、区画整理が行われたのは、東京市街に隣接する区南部が中心になっている。それは、市街地に隣接する農耕地の整理から始まった区画整理事業の歴史をよく示しているようにも見える。しかし、こうして未完に終わった区画整理事業の結果が、今日の密集につながることになる。


 荒川区の区画整理事業 概略図               

                                                       『区史』および区の資料より作成


大規模な工場の移転を活かせず
  1970年代の中頃から、隅田川沿いにあった大規模な工場が移転する動きが始まった。一つは区北部の旭電化の工場であり、もう一つは区東部の大日本紡績と鐘紡の工場であった。それに伴い、都が跡地を買収し、新たな街づくりが行われることになった。それぞれで事情や内容は異なるが、総じて言えるのは、荒川区が抱える密集-建て詰まりを解消する方向では街づくりが行われなかったということだ。
 旭電化跡地は、敷地全体がほぼ工場跡地ということもあり、従前居住者との問題が無かった。したがって主に、行政の政策と周辺にお住まいの方たちの要望との関係が問題となった。都としては、下水処理場や清掃工場を中心に考えていた。一方、周辺住民は公園や高等教育機関を望んだ。一人当たりの公園面積が、23区平均の半分にも及ばない(『区勢概要』前出・各年版)事を考えると、周辺住民の希望も首肯できないわけではない。ともあれ、区の抱える建て詰まりや街中に散在する工場を集約することは考えらなかった。
 一方、大日本紡績と鐘紡の跡地については、工場跡地だけではなく周辺も含めての街づくりが計画された。そのため、工場周辺にお住まいの方たちの扱いが大きな問題となった。『区史』(前出)にも、計画に対する工場周辺にお住まいの方たちの疑問の声が載っている。さらに、「事業の主目的が、防災拠点の整備から単なる市街地整備に変わってきているのではないかという疑念が地元の中で生まれている」と『区史』は記す。実際、計画はその後、南千住全体の再開発へと進んでいった。ここでも、区の抱える建て詰まりや街中に散在する工場を集約することは考えらなかった。
 両地区とも、大規模な工場跡地を活用して、密集-建て詰まりを解消する方策はとられなかった。また、街中に散在する工場を集約し、さらに新たな産業を創り出すことも全く考えられなかった。それどころかむしろ、開発によって新たに人口を増やす政策がとられた。当時は、今のように中高層の集合住宅があちこちに建っていたわけではなかった。まだ、木造低層密集が解消しない所に中高層の集合住宅が続々と建つ状況を招かないようにもできたように思える。このような開発一辺倒の政策が、今日につながってしまった。

地区計画-最後の機会も逸する
 こうして荒川区は、密集-建て詰まりを解消する機会を逸した。そして、次々と中高層の集合住宅が建つ状態となってしまった。もはや、状況を大きく改善することは不可能な状態となってしまった。そこでとられた方策が、地区計画であった。言わば、密集-建て詰まりが解消しない所に、次々に中高層の集合住宅が建て込む事態を改善する最後の機会であった。しかし既に見たように、敷地面積や生活道路の拡幅で一定の改善を示す一方で、増え続ける中高層集合住宅への対策は実質的にとられなかった
 

●あまりにもコンサルタント頼み
 今回、区に色々お尋ねして気になることがあった。区が公開-配布している資料同士の数字に、明らかな齟齬が見られた。そこでお尋ねすると、「委託しているコンサルタント先が違うので」と言われた。「コンサルタントを使うな」とは言わない。時には、コンサルタントに頼る事があってもよい。しかしこれでは、あまりにもコンサルタント任せと言わざるを得ない 。見たように区も、街の現状に対して様々な対策・施策をとっている。しかしほぼ全てが、国や都の施策・制度に基づくものだ。分権・自治が言われて久しい。もう少し、基礎自治体としての気概を見せてほしいと思う。


      *      *       *       *       *       *        *        *       *    

  ここで見たのは、もちろん一荒川区での現象である。しかし、都心回帰と言われる実相の一端をよく示していると思う。




このページの初めへ



はじめのページへ